book「恥と自己愛トラウマ–あいまいな加害者が生む病理」

恥と「自己愛トラウマ」–あいまいな加害者が生む病理

岡野憲一郎 岩崎学術出版社(2014年)
「恥と自己愛の問題はライフワーク」という著者、京都大教授、「恥と自己愛の精神分析」「新しい精神分析理論」「解離性障害」「脳科学と心の臨床」など多数。

著者は、「恥こそが最も人間にとって威力を持つ感情である」という。「恥を怖れ、恥をかきたくないという思いが人を強力に突き動かす。恥をかかされたという思いが相手への深い憎しみとなる。」

「近年、怒りをその背後にある恥や罪悪感との関連からとらえる・・・怒りを二次的感情として理解することが一般化しつつある」ことを紹介しつつ「怒りには、自己愛が傷つけられたことによる苦痛、すなわち恥が先立っている」「怒りは、実は恥や弱さに対する防衛という意味合いを持っていることになる」と述べている。
(これは臨床でも実感するところと重なる)

恥をかかされた体験を「自己愛トラウマ」と呼ぶ。
「自己愛とは、自分に満足し、満ち足りた状態をいう。自分は大丈夫だ、やれるんだという気持ち。自分は案外イケているじゃないか、という自信。それが自己愛だ。
恥はそれが侵害され、押し潰された時の感情として理解できる。それは深刻なトラウマ、すなわち自己愛トラウマ体験を引き起こすのである」

「自己愛トラウマを引き起こす加害者は誰なのか。多くの場合、加害者の存在はあいまいである。
その人は加害行為に気がついていなかったり、そのつもりがなかったり、逆に自分こそ被害者だと言い募るかもしれない。
しかし加害者がわかりにくく、あいまいであっても、あるいは不特定多数の人々であっても、自己愛トラウマを被った人の傷の大きさは変わらない。
そしてその自己愛トラウマがそこから新たな怒りや加害行為を生むこともある」

本書では、この「自己愛トラウマ」と「あいまいな加害者」という切り口で、いじめ、モンスター化現象、無差別殺傷事件、災害トラウマ、学校教育、さらに文化論にまで及んで語られる。
そこでは「恥の力」によって私たちにさまざまな度合いの自己愛トラウマを与える、それが個人の病理として現れたり、社会全体に見られる問題を形成したりもすることが指摘されている。

心理療法が語られているのではないが、様々な切り口がとても興味深く参考になる。

著者が本書について振り返った文章を紹介する。理解の参考として分かりやすい。
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発達障害に関連した事件、いじめ、モンスター化現象など、様々な社会的な問題にこの「自己愛トラウマ」が関連しているというのが本書の趣旨である。

しかし、改めて考え直すと「自己愛トラウマ」は、トラウマとは言っても、かなり身勝手なそれである場合が多い。
本人の自意識が強く、人からバカにされ、脱価値化されることへの恐れが大きいばかりに、普通の人だったら傷つかなくていいところで激しく傷ついてしまう。
問題はそれが本人にとってはトラウマとして体験されることであり、そのため爆発的な反動を生み、それは怒りとなって確実に「あいまいな加害者」たちに向かい、彼らはその濡れ衣を着せられてしまうことが多い。
実に複雑で厄介な問題を生むのである。

本書で十分にふれることができなかった問題のひとつは、
加害者の存在がしばしばあいまいなだけでなく、時には被害者にすらなる、ということである。

「浅草通り魔殺人事件」を考えてみよう。
「歩いていたら短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカットなって刺した」というのが犯人の言い分であった。
この場合、犯人は確かに私の言う意味での「自己愛トラウマ」を受けたのだろう。
そのトラウマを与えたのは短大生であり、犯人はその限りにおいては被害者ということになる。
しかしこの事件の最大の犠牲者、被害者はこの短大生であることは言うまでもない。
彼女を加害者と呼ぶことは決してできない話である。

それでは犯人の体験をトラウマと呼んではいけないのだろうか?
倫理的には「とんでもない、それは身勝手な話だ」ということになろう。

しかし心理学ではこれをトラウマと扱うことで見えてくることがある。
それは通常の、一般人が体験し、かつ理解可能な「自己愛トラウマ」と同じ種類の、しかし何倍も強烈なインパクトを犯人に与え、それが激しい攻撃性を相手に向けさせたという事実である。

この倫理的な理解とは切り離されたトラウマ理論は、一部の発達障害における心の動きや、場合によっては反社会的な人々の心の動きにも及ぶ可能性がある。
その意味ではこのテーマを扱うことは、何か危険領域に論を進めているような不安を感じさせる作業でもあった。
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